アイデンティティとエヴァンゲリオン

エヴァンゲリオン 実写版 ハリウッドで

先週から、新世紀エヴァンゲリオン リニューアル版をレンタルビデオから借りて観ていた。
先ほど、1時間程前にアニメ版全26話ともう一つの結末、劇場版「Air」「まごころを君に」を観終わった。


劇場版は、アニメ版の24話が終わった直後からの、もう一つの結末を描いている。
ハッピーエンドとバッドエンドみたいなものだ。
アニメ版の25話と26話と、劇場版の25話と26話、どっちがハッピーエンドなのかは、良くわからない。
人それぞれだと、私は思う。
客観的に観たら、アニメ版がハッピーエンドなのかもしれない。
でも、逆に考えたって、不思議じゃない。
それくらい違った見方をしてもいいと思うからだ。
人は0と1じゃない。
複雑な想い(かたち)をしているから、いろんな見方があっていいに決まっている。


どちらのエンドにも言える事がある。
人のアイデンティティを考えさせているところだ。
一番強烈に、このアニメが私に訴えてきたのは、人間のアイデンティティに関する事だ。
自分は、何故存在するのか?
何故、ここにいるのか?


私の想いが、画面を通して、私自身に突きつける疑問。
何故、私はここに居て、何故、私の思考はこうなのか、何故、私はゲームの専門学校に通っているのか、何故、私は過去のプロセスを経てこうしているのか、何故、私は人間なのか、何故、私は生きているのか、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故何故何故何故何故・・・・・・


自分の存在を否定してみた。


















怖いっ・・・
















死にたくない・・・。














自分の存在が無くなる事に、恐怖を覚えた。


何も出来なくなってしまうのが、怖かった。
何も考えられなくなってしまうのが、怖かった。


怖い・・・。
怖い・・・。


涙が出てきた。


死にたくない。
死んだらどうしよう。
死にたくない。


アニメが終わる。
画面が真っ暗だ。
部屋の電気を消す。
部屋が真っ暗だ。


死へのアイデンティティを考える。
また、イメージする。
目を閉じて、自分の存在を、この世から抹消する。
殺されるイメージじゃない、自殺するイメージじゃない。
この世から、自分というものが、無くなるということを、イメージする。
さっき、イメージ出来たことだ。






出来ない・・・。
イメージ出来ない。
さっき出来たじゃないかっ。


あの、絶望的な感情を心が拒んでいるのか。
何度も、何度も、想像で自分を殺す。


射殺されてみた。
首を絞められてみた。
首を吊ってみた。
ナイフで身体をずたずたに引き裂いてみた。
老衰してみた。


でも、自分が無くならない。
ついさっき、出来たイメージが出来ない。
自分が無くなるという、深いアイデンティティが想像出来ない。


口を開けて、息を吐いたら、涙が出てきた。
止まらない。
悔し泣きに似た、音の出ない声を出しながら、泣いた。


悔しかったのか。
怖かったのか。
良くわからない。


死について考えて、泣いたのは久しぶりだった。
いや、初めてだったかもしれない。
良く、子供の頃、夜中に死について考えて、涙が溢れて来るという、シーンを見る。
あんな、感じだ。


死について考えることが怖いのは、子供だけじゃないんだ、大人になったって同じことなんだと、思った。


生きることは、大切なんだと、思った。
死にたくないと、思った。
そう、思った。


ここまで、エヴァンゲリオンのエの字も知らなかった自分が、残念でならない。
でも、エヴァンゲリオン当時に、見ていたら、ここまで、考えることは、出来なかったんだろうと思う。
自分の生きてきた道が、こんな風に考えさせたんだろうと思う。
変な事して、目立とうとして、恥ずかしい思いして、何度も泣いて、何にもわかってなかった小学生の自分。
馬鹿して、サッカーに明け暮れて、万引きして、登校拒否して、恋して、ゲームして、オナニーして、青春を謳歌した中学生の自分。
成績優秀で、あまり友達いなくて、ゲームばっかりやってて、勉強は学校だけで、テストの前日に丸暗記して、テストの点だって、ゲーム感覚で、青春がすっぽり抜けた高校生の自分。
そんな、自分だからこそ、感じれた何かが、きっとあったと思う。
だから、今の自分で良いのだと、そう思える。
私も、エヴァンゲリオンを見て、シンジ君のように、少し成長出来たのかな。